映画の名場面

撮影などは私はあまり分からないが、時々これはというシーンに出会うことがある。
真っ先に思い出すのは小津の「浮草」鴈治郎京マチ子の雨の中のシーンだが、役者、撮影(宮川一夫)、監督何もかも、あれだけ息が揃ったものには殆どお目にかからない。



雨の中の「追いかけっこ」の場面は、まさに圧巻であり、二度見たが、その度にぞくりとした。上方歌舞伎出身の鴈治郎の走る所作は元々かなり目につくが、京マチ子のそれと相俟って、殆ど奇跡に近い効果を生み出している。




中村鴈治郎というと、言わずと知れた関西歌舞伎出身の芸達者だが、以前テレビでちらりと上方歌舞伎を見て、あまりに江戸歌舞伎と違うのに驚いた事があった。
歌舞伎については私は全くの門外漢だが、その時演じられていた所作は踊りそのままのように思った。鴈治郎の演技も思い出し、なるほど芸については上方が上と言われるのはこのせいかと合点が行ったが、その頃も現在も、上方だけでは興行が成り立たないのはなんとも皮肉なことである。




元々、時代劇最大のスター阪東妻三郎は第十一代片岡仁左衛門門下であり、片岡千恵蔵嵐寛寿郎仁左衛門主宰の片岡少年劇にいた。しかし当然のことながら、血筋でない者は力があってもいい役がつく事はなく、三人とも映画をに新天地を求めた。
つまりは時代劇のスターの多くが上方歌舞伎の落とし子という言い方もできるのだが、アラカンは後に、十一代目の知恵蔵に対してのあまりの仕打ちを見て、少年劇を去る事を決めたと述懐している(参照)。



当時千恵蔵大変な美少年で、資質も光るものを持っていた為、目をつけられたようである。この十一代目仁左衛門は「かなり」の人であったようだが、後年見る限り千恵蔵はかなり不器用な人ではあり、十一代目を苛つかせたのは、何とはなしにわかるところがある。



そしてこの三人がどこへ行ったかといえば、日本映画の父と言われるマキノ省三の所なわけだが、その省三の口癖は映画を当てるにはまず「スターを作れ」だった。
実際、映画の草創期は尾上松之助(旅役者出身)、阪東妻三郎月形龍之介剣劇出身)、嵐寛寿郎片岡千恵蔵といった省三が発掘したスターによって作られていった。結局、関西歌舞伎の状況が映画の黄金期を呼んだともいえるわけである。




さらにいえば、時代を下って市川雷蔵wiki)も上方歌舞伎出身である。市川寿海の養子になった雷蔵ですら映画界に出ることになった事からは、上方歌舞伎の内部がなかなかややこしかったろうことが察せられる。雷蔵はスター性はもちろん並の資質の持ち主ではなかったから、残っていれば上方歌舞伎の行く末も違ったかもしれない。


以前ファンクラブの会報に載せていたという雷蔵の文章を読んだことがあるが(参照)、なかなか、女性にとっては恐ろしい事この上ない人である。共演した女優について書いている文章が、もう身も蓋もない。げに恐ろしきはその観察眼。並みの頭のきれ方でない事が察せられる。



たとえば、山田五十鈴の娘の嵯峨美智子について、病気で寝ていた彼女に誘惑された(確か)ことを明け透けに書いているのだが、さらに母親の方は男遍歴を芸に昇華したが、彼女はただ男が好きなだけだから身を滅ぼすのだと書く。嵯峨美智子はスキャンダルでも有名な女優ではあるが、実際交流のある人間があそこまで書けるものではないだろう。彼女の人気凋落の一因ともなった整形についても遠慮なく言及している(嵯峨美智子は自分の母親似の顔立ちを嫌い整形している)。


しかも決して嵯峨美智子に悪感情を持っているわけではない。当時嵯峨は失踪中で、大変演技のうまい女優だからもう一度共演したいとも書いている。
「だから」雷蔵は恐いのである。



他の女優についても似たようなもので、若尾文子についても散々誉めておきながら、本人が読んだらショックを受けそうな内容を書いている。あの文章を本人たちが読んだのか、読んだならどう思ったのか、少々聞きたいところではある。



元々雷蔵は歌舞伎役者時代に芸者が控えているところに裏から遊びにいくような遊び方をしているから、女にこれといった幻想を持っていない。永田雅一の妾の娘をもらっているが、この人は日本女子大出の本当に普通のお嬢さんで、夫婦仲は大変良かったようである。雷蔵は遊びもせずに家に直行することで有名だった。



遊ばないといえば千恵蔵もそうだが、この人は遊ばなかった分、後年一山来た。まあこの話はいいのだが。




えーと、筆が滑りすぎて妙な所まで来たな。
長くなったがこれでおしまい。