猫の死、人の死と不安

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http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060826/1156574878


坂東眞砂子氏の記事



うーん。正直この話にはあまり興味がないのだけど。妙な所で絡んじゃってるなと。


ひとつ言うならば、飼うという行為でもう既に人為的に関わっているわけで、そこで自然な形というのは違うかなと思う。ただ、あんまり坂東さんを非難する気にもなれないというか。タヒチにいるか、都会に住んでいるかという感覚の違いも単純にあると思う。


自分が猫を飼っていた以上、心が痛まないわけもないのだが、都会でも生まれたばかりの子猫が死んでいく姿というのはいくらもある。上野あたりに春行くと、沢山子猫がいる。あそこで餌をやってる人たちもいるが、ああいう子猫達はあまり生き抜いてはいけていないだろう。私は過去猫を何匹も飼ってきたけれども、生をまっとうさせてやれたと言い切れるのは、殆どいない。猫は簡単に死んでしまうものだと知っているし、自分の事情で十分に面倒を見てやれなかった事もある。



実験動物という言葉が出ているけれども、子猫の貰い手探しの広告を出したとき、明らかに申し込みの過半数が不審だった。私の家は関東だが、稚内から問い合わせが来た。あれらはおそらく実験動物の業者などだったろう。


都会の犬猫の命には、横にそんなものが寄り添っている。坂東氏が命を奪うまでもなく、残酷に生は踏みにじられて、苦しみの内に、またただ静かに終わっていく事実がある。
私は彼女と同じ行為は取らないが、彼女の透徹した眼差しは眼前に見えるように思う。私が見たのは都会のそれであり、彼女の見ているのはタヒチのそれである。


生の判断に主体的に関わっていながら、彼女の痛みで、子猫の死を引き受けられるものではないだろうが。





そしてもうひとつ、彼女が子猫を投げ捨てる姿を目にしたら、あなたはそれを止める事ができるだろうか。割り切れないものと反発を感じつつ、結局何もできずに終わるのではないか。
たとえば彼女が安楽死をさせるとか、刃物を用いるといった手段を取ったなら、誰でもが止めるだろう。具体的だが、毒を用いた場合は微妙であると思う。


その場で「止められない」という事実が何を指すか。それが追いやられ、また考えられるべきことではあるのだ。




話は飛ぶが、子供の頃、周りが避妊手術は悪であるという論調ばかりで、猫を飼っていた私は反論したことがあった。現実、避妊手術をしなければ、毎年何匹も生まれる子猫達が生まれ、その面倒を見ることはできない。決していい事ではないが、猫達を見ていてさほど不幸であるようにも見えなかった。


ただ一度、自分の妹猫が避妊手術をして包帯した姿で戻ってきたのを見て、あるメス猫が錯乱状態に近くなった事がある。その猫は自分の手術の記憶を思い出したようだった。そのとき、手術の様子が、あまりにも深い傷をその猫に負わせていたのがわかった。バースコントロールであるとか、そういう事以前に、彼女は手術が恐ろしかったのだ。普段溺愛している妹猫に対するその猫の姿を見て、我々は、自分たちが彼女に何をしたのか理解した。



それから、手術を受けるべき雌猫はもううちにはいなくなった。
結局櫛の歯が抜けるように猫達はいなくなっていき、何年もかけてその衰えていく姿を私の目に残していった。まるで私の様子を写し取ったように、身体を損ねていった猫もいた。その猫は十五年以上生きて、撫でても撫でても体の中が苦しいのだと訴えた。もっと撫でてくれ、もっと撫でてくれと身体をくねらせていた。


最後の日、たまらないのだと部屋から出て行ったあと、猫は車に轢かれて死んだ。道路に横になっていて、車をよける元気さえ失っていた。
轢いた運転手は猫の異変を近所に知らせ、もう死んでいたのだと嘘をついて既に去っていた。



あの猫は私の人生が殺してしまった。誰がなんといおうとも、それは事実なのだ。あの子が私の横にいなければ、もっと違う死に方をしただろう。そしてそれは別段もっといい人生というものでもない。あの猫は私を愛していたし、けれどあの子と私はすれ違っていた。私には猫達の心が見えなかった。撫でても触れても、いつもすれ違っていた。私の体にかかった霧が邪魔をして、何もわからなかった。


この意識が鮮明であったなら、もうすこしどうとかしてはやれただろう。私の体が邪魔をして、あの子らを自分のどうにもならなさにつき合わせてしまった。それが共に生きるということなのだろうし、飼うといったところで寄り添って生きるということは、人生を共有するということである。ただ人とひとつ違うのは、影響を及ぼすのがほぼ一方的にこちら側であり、彼らに抗う術がないということだ。



その矛盾を引き受けることが人の社会にいるということであり、何をどう、見ようとせずにいたところで、どの存在にも、生にも、死にも、その影は落ちている。見つめれば声無き声を聞く事になるし、ただ追いやられて死んでいくものを見つめていかなければならない。そして見つめることそのもの、それを言葉にすることが、社会に存在し得ないことであることも。そこで何が起きてしまうかも。

視線とは何であるか。




どこからどこまでというのもないけれども、これをしてやれればもう少し生きられたかもということが何回かあった。それは「どうしてもできなかった」ことでもない。無理をすればできた事だったかもしれないし、そんな日常の事情の中で、猫は死んでいってしまった。結局私は子供で決定権を持たず、ものを言う事ができなかった。それでも癇癪を起こしてみるべきなのかと自問自答していた。私は親に世話になっていることを過度に気に病む子供で、大人の事情というものもわかってしまっていたから、口にしないままそんな出来事は何度も過ぎていった。
それを不作為の罪であると指弾する人もいるのだろうが。ブロゴスフィアはいつもそんな声で溢れているが。



そして、そのうち生き物を飼うというのはそんなものなのだなということを理解して、いい加減な限界を持ちながら、付き合っていくしかないのだということがわかってきてしまった。



たとえばもしこれが自分の家族や自分自身であっても、日常のグズグズの中で病も死も過ぎていくものであるし、さてここで多額の費用のかかる手術をしなければいけない、それをやればあなたの身体は助かるかもといわれたら、それは手術を受けない選択というのも当然としてある。例えばそのおかげで家が破産、満足な身体でない人間が家族に負担をかけて破滅に導くという事にもなるだろう。
それはただ選択の結果、未来に見据えられる現実であり、時に
ひとつの命が何もかもを優先されるものではない。



これらの内容は普段口にできない種類のものであり、自分というものの生の中で語るなら人生論として受け取ってももらえるだろうが、他人を対象にした場合、この言葉はとてもではないが受け入れられないだろう。
そんな時、人が自分をどう見つめるか私は知っているし、その先に石もて追われる自分が見えることがある。というより、そうして人生の外に追いやられる自分を、私は幼い頃からずっとイメージとして持って来た。
その結果はただ必然であり、生きる事の冷酷さはしかし現代では覆い隠されている。



不安に触れればその不安によって追われる。追われるものは、存在し得ない。
そこにあなたが、どれだけのものを投げてきたかわかるだろうか。不安と見ないことが、人にどれだけの事をさせてしまうのか。あなたのその手が意識しないまま、どれだけの事をしてきたか。




ただ黙って死ねというだけで、追うのが現代である。
私は現代を憎んでいる。