状況について

ことのはの件も、実質もう終わっているかなとも思う。


馴れ合いのことに関し反応していたのは、要するに自分で自分の言動に違和感があったからだが、私は人の批判にわざと反応する所がある。
政治的論議では、それで「失敗」してきただろう。批判を事実として切り分けられる人とは、きちんとした議論になるが(場合によってはもちろんこちらの矛盾を認める形で)、最初からこちらの意思にいらぬものを読み取っている場合、向こう側には勝ち負けの印象しか残らない。


最近のブロゴスフィアでは、穏健派がやや偏向したサイドからぼろくそにやられ、またその印象がいつのまにか流通してしまっているなという感じがある。その批判ひとつひとつの論拠は正しいし、傾聴すべきものではあるのだが、そこに滑り込まされてある「意思」。批判側は自分の問題意識を、当然の前提として引き上げ他者に適用してしまう。そしてそれが見えず、状況が引きずられてしまう傾向がちょこちょこ見えてきた。批判する彼らは自分の問題意識の外にあるものは事実とし採用しない。というより目に入らない。
これはいわゆる糾弾に近い状況でもあるだろうし、これらが通用してしまえば結局それは言論弾圧になる。



「お前は差別者である」と指を指す者は、破壊と混乱しかもたらさない。まあこれも波のようなものでしばらくすればやむだろう。だが、その間に有為の人間は何人か消えるだろうなと思う。既に言わなくてはいけないことが、言い辛い状況にはなっている。



私もこのブログでも何回か言うべきことを言ったつもりだし、今まで何度かそういうエントリを書いたことがある。だが問題は、そのエントリを書いた後、大概ややこしい状況が付随してくるという事だ。
公論を為せば、そのあり方にすべてを見、自分の思い入れをぶつけてきてしまう者が現れる。矛盾は殊更注意して見られるようになるし、自分の価値観で断罪しようとされることが多くなる。そして見え隠れする深い部分を彼らは決して読み取らない。厄介な事は、そういうことをやる「党派」さえ存在するということである。



また己が本来言うべき立場ではなくとも、見識が充分でないとわかっていても、ものを言わなくてはいけないことがある。それほどにブロゴスフィアの層というのはまだ薄い。当事者的立場の人間が見たら、私の発言に反発をされることもあるだろう。それはまた当然の話でもある。
実際もう二、三回私が「物申し」たら、必ず潰しにかかるサイドがまた出てくるだろう。一部から私が結局偏見にまみれた人間だと判断されているのはわかっているし、それを必ずしも否定するつもりもない。バランサーでしかないといわれた事も、ある部分当たりであろうと思う。私の種種の見識は、あまりに薄いものだからだ。



差別心というのがどういうものか、それは生きるに当たって不可避、というより不可欠なものであろうと私は考えている。それは自分の軸足がどこであるかという事に関係するし、誰もどこかに存在するものである限り、何かを踏みにじらずに生きる事はできない。
あなたは差別者だと指差す意思そのものに、もう差別意識が忍び込んでいる。その所作は、愚かさそのものですらある。



またそこにあるのが差別かということ。予断になってしまう事は確かにある。予断が取り返しがつかない事を呼び込む事はあるが、それは差別意識と呼べるものでは必ずしもない。
また人の予断を差別意識として糾弾する人間は、それを予断を以って行っている。そのいらぬ意思を読み取る意思、装置そのものが、遠く恐怖政治や魔女裁判を呼び込むのだが。




ネットの「若さ」に合わせるのもそろそろ限界かなという気がする。ま、私もかなり引きずられたが。
本質を出せば私の書いたものなど誰も読みに来ないだろう。実際には、今の私には書くべき事はない。エレニの日記は事故にあって書き始めたようなものだ。


ま、そろそろ終わりかなという気がする。
分からないが。