靖国が公か私か

というのがどうも私の中では割り切れない。宗教施設なのだから、戦前はともかく戦後は国家とは分離されている。靖国を国家がどうこうというのは違うだろう。
靖国の周囲の思想的な感じは率直に好かない。東京裁判が不当であるか否かという議論も、危うい結論ありきであれば支持でいない、というか、いかなる形でも現実には支持しようもない。


東京裁判に瑕疵があったかという議論と、日本が侵略行為をしたかという議論は直接は関係がない。ただ、あらゆる思想的立場から、結び付けたがる人たちがいるというだけのことだ。連合国側が自分たちの罪を拭ってしまったという要素はあるだろうが。エノラ・ゲイを平気で出してくるアメリカの神経は私には理解できない。



A級戦犯合祀の経緯については、問題があると思うが、ここもいいろいろありそうで言いにくい。
靖国がどういう形を取っていくか、それは国民の捉え方に影響されていくものではないのか。戦前と戦後が靖国のあり方が違うように、誰かが確定するようなものではないと思うが。政治的思惑が神社の内外で交錯する中で、見えづらくなっている曖昧な本質があるように思う。



戦争で命を落とした人間の魂をねぎらうという意味で、私は国家の長が参拝するべきと考えている。ここで千鳥ヶ淵拡充の話が出てくるのかとも思うが。
小泉首相は「不戦の誓い」と口にしており、どう考えても日本侵略肯定論を支持しているわけではない。ここはしばしば意図的に混同されるが。小泉首相靖国を巡っては、右派にも評判が悪い。



どちらにしろ、いかなる戦争であろうとも、戦争で死んだ人間たちを国家が無視するというのは取り得る選択肢ではない。彼らは国という名の元に死んだのであり、日本人はその命の上に生きている。決してそれは非連続ではない。
彼らを加害者とするか被害者とするかというのも見当違いだろうが、彼らと向き合う事は、日本人が戦争というものと向き合う事でもある。そしてあの頃の日本は世界はと思うが、それを考えるだけの材料を私は持たない。加害被害ということも考えねばならないが、それを超えた所にも、見なければならないものはあるだろう。




少し戻ると、分祀というと普通勧請の事を指す。分祀という言葉の使い方そのものに違和感を感じていたが、こういうページがあった(A級戦犯を分祀せよ(オロモルフ))。結論には必ずしも賛同できなくても、内容的には読むべきところがあるだろう。現在私はこのページを詳細に読める状態ではないのだが、参考として掲げておく。


分祀という言葉が政治的な意図に基づいた事実上の造語に近いのではないかとあるが、この見解はそう間違ってはいないと思う。ただ、靖国は特定の祭神を祭っているわけではないし、後半ちょっとどうかとは思った。昔から災害が起こったときには死者を祀って慰めた筈だが、それがある部分靖国的な発想だろう。元が国家神道なわけでどうしてもいびつな形にはなるのだろうが、やはり結論としては「分からない」というところに戻ってしまう。この辺りは専門の意見が意外と見えやすいところに出ていないが、何故だろうなと思う。靖国の見解をそのまま鵜呑みにすることも、私はどうかなと思っているが。



靖国は日本とどのような距離感を持っているのだろうか。彼らは日本とどのように関わり、開いているのか、関わっているのか。私にはそれがわからない。
自分があの戦争とどんな関係を持っているか、通底するものとしてはわかる。が、やはり掴みきれない。