普通の女

はてな周辺を見ていると、フェミニズム関係の議論が多い。他の所ではありえないというか、私としては基本的な発想が違いすぎて、見る気がしないというのが本音である。フェミニズム系の女性を見ていると、体質そのものから違うなと思う。私にはそれらを巡る議論がしばしば過剰に論理的であるように見えるのだが、これはフェミニズムに限った話ではない。ただ、フェミニズム関係の女性を見ていて、人を見下す空気を感じる事がある。彼女たちにとっては、理解しない人間は矯正すべき存在なのだなと、時にはっきり感じ取ることができる。


一連の議論を(ちょっとだけ)見ていて、そういえば満員電車は痴漢が多かったなと思い出したが、そこで女性専用車両是か非かと問われても、私はそれに興味をもたない。その辺り、発想に全く接点がないなと思う。一度反ジェンダーフリーの論調に辟易して、ジェンダーフリーについて書いた文章を読んで納得するところもあったのだが、現在のバックラッシュのお祭り騒ぎを遠くから見ていても、相手側を徹底的に見下す空気を感じる。あれはどうとかならないかと思う。



ただ当事者である女性が、女性の社会進出とか、自分においしい所だけは認めるけれど、その元々の発想は認めないよ、理解すらしようとしないよというのは勝手な話であるだろう。女性の社会進出というのは、社会構造の根本的な変化であるわけで、その根本を深く考えもせずとりあえず支持というのは、随分と足場が不安定である。
で、この辺りの感覚・所作は、言うのは何だが、非常に女性的だなと思う。家族制度は過去のものとして、それを巡る義務は果さないが、遺産はきっちりもらうわよ的発想というか。深く考えないで流れで自分の都合のいい様に流れでやってくんだけど、痛いとこ突かれたら逆ギレとか。


などと書きながら、もう既に考えがずっこけてきているのだが、「女性の立場から社会を考える」という発想自体が、自分にはない。つーか、大部分の女にはない。
更に言えば「社会を良くしよう」という発想も自分にはひと欠片もない。これについては全く私特有の欠陥ではあるが。


フェミニズム的発想になるかならないかというのは、社会といいうものをどう捉えるか、自分とどうかかわるかという意識差でもあるんだろうなと思った。



で、結論は別にない。
つーか、自分を含めた普通の女がどんな存在であるか書こうかと思ったのだが、途中でコケた。要するに「無意識」であるということなのだが。
流れに任せてその場その場で無意識に生きていくのは女性の才能でもあり、人の必然でもある。その無意識を私は愛するし、その空気の中で社会が回っていってくれたほうが私はいい。と書きながら、無意識の定義が、女性のそれと社会のそれとごっちゃになっている事に気がつく。


ダメだ。こういう議論は私は徹底的に向いていない。