カルトに簡単に侵されてしまう人達

日本人というのはカルトに弱いねー。
そういう意味では、カルト的精神を抉って批判する事もやはり必要なのかな。

まあろくでもない宗教というのは昔からあって、現代だからどうのとはいえないけど、オウム的なものの現代性・時代性というのはある。宗教を危険なものとそうでないものと分けるのも難しいだろうし、オウム的なものにシンパシーを感じてしまう人達の感覚も、見ていてなんとなくわかってしまう(鏡の法則に何かを感じる人の感覚はわからなかった。この人とは気が合いそうだ)。そして生き辛い種類の少数派性は、自分の中にもあるのだと思う。


ただ、彼らと私の間にははっきりした差異があって、何でこんな自明の事が分からないのかとイライラする。そして、その差異を生み出すものがなんなのかはよく分からない。いや分からないというか、それこそ自分の少数派性によって、私はその違いを見ないで来たのだろうが。



本来私は、あまり現代の人の精神構造ではない。

人生とんぼ返り : 道筋


で、当時ここから削除した部分。

ひとつだけ、関係ないが松永氏に関して思った事がある。なぜ自分が「追いつめられる」「殺される」と、殊更に言い立てるのかという事だ。人が悪意によって死ぬことなど珍しい事ではないし、社会の力によるなら尚更である。彼は自分が馬鹿げたものだと思うに至らないのだろうし、別段その選民意識を咎めだてしようとは思わない。選民意識が生まれるところは、生きる根本に関わる所でもあるし、そこを追求するのは「やるべき事」であろうとも思っているからだ。


しかし自分が「他者」である事、何かを求めて生きる者である事は、社会というものの被害者になる事にはつながらない。私も社会から殺され続けてきただろうし、世界の眼差しに入らない者がいることは知っている。沢山の者たちが、今もそんな残酷さによって、死んでいっていることは知っている。
生きようとする事は間違っているのだろうし、だがそれをやめる事も出来ない。しかし声無き者は黙って死ぬべきであり、それはただ世の理であり、誰のせいというものでもない。彼が見、非難する外の意思など存在しない。声無き者を殺していくのは、もっと別のものである。
そして私もあなたも、誰かを殺すことによって生きている。どんなに馬鹿げた人生であったとしても、生きる価値など無い人生であったとしても、たった今その足は、誰かの死体を踏みにじって生きている。もしその死体の顔がその目に見えたとしたら、誰も生きていはいられない。正気など保ってはいられないだろう。


「見られないもの」であるという事は、ただ必然であり、同時に「彼ら」も、他者の命を省みなかった。人の命を軽んじるなら、せめて己の命を軽んじていなければならない。人を殺すなら、自分の命を投げ捨てなければならない。それで足りるというわけではない、己の命を軽んじるからこそ、他者に致命的な行動を為してしまう者もいる。ただ彼が「殺される」事を言い募る気持ちが、私にはわからない。「追求する」人の意識が、なぜ「そこ」に向かう事がないのか、分からない。彼の言葉の何割かが、計算ではあるにせよ、だ。
外への被害者感情を今も昔も変わらず持ち続けていることが、その団体の全ては嘘っぱちである事を指している、と私は思っている。
何かを求めていると思っているなら、とっとと死ねばいい。その力という幻に殺されればいい。死んだとしても、何も変わらないのだから。
そして誰の人生もただ、「見られないまま」終わっていくものでしかない。



話は戻る。


カルトにはまる奴は気合が足りない。
甘っちょろい事言ってるんじゃねー、と思う。



追記
http://d.hatena.ne.jp/Ereni/20060703#c1151949360

松永さんも幼稚さを持っているし、彼は人や社会の良心を虚仮にしながら、当にそこを利用する。それがオウムのやり方ですが、こちらはわかっていてもある程度それに乗らなければいけない。


R30さんの様子を見ていて、これでは埒が開かないなと思った。カルト思考の傾向、やり口については、もうクリアにしといた方がいいでしょう。そしてその上で、松永さんは現実世界に戻ってくるべき。
ひとつ知りたいと思っているのは、R30さんがpsycho78の書いたものを見ていたのか否かだが。