佐々木俊尚氏エントリについて 「ジャーナリズム」は、今回何を検証したか


CNET Japan Blog - 佐々木俊尚 ジャーナリストの視点:ネット世論の「拠って立つ場所」とは
BigBang: 希薄なのは「内環」の方ではないのか----佐々木俊尚氏に再度答える
真プライベート・ロード: 困惑中
finalventの日記 - あられもない言い方は避けるが……



さて、今回の佐々木氏のエントリーに関しては、また更に論点がずれた印象があるのだが、「無限の円環構造」「圏域」とやらの定義の無理について。

たとえば今回の「ことのは」問題に関して言えば、中心に泉あいさんと松永英明さんの存在する圏域。その外側に、R30さんや私、歌田明弘さん、湯川鶴章さんらの圏域。その外側に、内側の二つのサークルを徹底的に批判しているBigBangさんや美也子さんたちのいる圏域。そしてさらにその外側には、弾さんや『Parsleyの「添え物は添え物らしく」』のエントリー『今更の『「ことのは」問題を考える』雑感 』が言及している、以下のような圏域。


民主党懇談会の出席者であり、Gripの報道機関に関わったBigBang氏は、ある意味当事者であり、松永・泉両氏とは正面から対峙している。また小飼氏も民主党懇談会出席者であり、当初の氏の、自分の当事者性を全く無視した対応は、当時批判されもした。


いったいこの圏域の仮定は、どこから来るのであろうか。しかも佐々木氏は、自分がより内の圏域にいるという。それは少々自意識過剰に過ぎるのではないかと、しばらく首を捻っていたのだが、何度か読み返して、つまり「ジャーナリズム的視点は、一般人よりも、対象物により近く的確に迫れるのだ」と言いたいのだとわかった。これこそ、散々批判されている「既存ジャーナリズムの傲慢」であるのだが、幾ら「新しいもの」を標榜しても、身に染み付いた本音は思わず出てしまうものらしい。


ジャーナリストが他の人間よりも対象物にせまれるとすれば、それは表に出ていない事実を掴み取ってくるという前提、そしてそれをする意志を以ってである。
彼らは事実を検証したか?していない。松永氏や泉さんに事実の公開を要求したか?もちろんしていない。
それを今行っているのは、BB氏である。素人にジャーナリズムの仕事を押し付けておきながら、その当人を「ジャーナリストとして」批判するとは、倒錯もいい所ではないか。

この円環どうしの衝突は、「誰が世論を背景にしているのか」という戦いにほかならない。「自分こそが世論だ」「自分こそが正義だ」「自分こそが社会の論理だ」という論がぶつかりあっている。外側にいけばいくほど、その拠って立つ「社会」「世論」は薄く広がり、見えにくくなっていくようにも思える。


氏の円環の仮定自体に無理があり、上のような佐々木氏の物の見方は、今回全く意味をなさない。強いて言えば、松永氏の件が起きてしばらくして起きた、はてな内の「陣取り合戦」に近いものがあった。彼らは己の正義を主張したいわけではなく、それぞれ自信がないからこそ起きた現象ではあったが。



佐々木氏らが行っているのはジャーナリズムではない。事実の検証を置き去りにし、ジャーナリズムの仕事を放棄して、頼まれもしないのに彼らは社会を論じている。そんなものは、三流の社会学者や、そこらの自称哲学者に任せておけばいい。もちろん、そんな事をやっているブロガーも掃いて捨てるほどいる。だが彼らは何の責任も問われない。なぜなら、誰もそんな言には耳を傾けないからである。



また佐々木氏は美也子さんの「こぞって」という言葉尻を捕まえ、そこから論を展開しているが、

例えばR30氏の発言や態度を容認する人も、否定する人も
オープンジャーナリズムなる試みに期待する人も、懐疑的な人も
こぞって「泉あい的手法」にはNOを突きつけた


美也子さんはオープンジャーナリズムに期待する立場であり、黒崎氏は違う。かつてGripに期待していた人たちの「多く」が、泉あい氏から離れ、批判しているのも事実である。彼女が言っているのは当にそこであって、佐々木氏は自分の都合のいい様に、部分を取上げているに過ぎない。



結局佐々木氏らがやったのは、この問題をイデオロギーイデオロギーやメタ議論に結びつけ、問題を置き換える事であった。しかも単純に、R30氏はジャーナリストではない。氏自ら「趣味のジャーナリズム」「ジャーナリズム(笑)」などと言っているではないか。



佐々木氏のブロガー責任論は、このようなジャーナリストへの勘違いした論立てから導き出されたものであり、一切意味をなさない。
また彼らの自身の論の危険への無自覚さは、以前書いたエントリにある通り(参照)である。