「ジャーナリスト」達の無責任な「言論」


BigBang氏の所にコメントしようと思ったが、長くなったことと、また内容的にも自分の責任において書いた方がいいと判断。自分のブログを閉めたばかりだが、一時的にブログを立ち上げることとする。殆ど記事を残していないが、一応名刺代わりに、右柱に旧ブログにもリンクを張っておく。本来メインであった政治記事は、既に残していないが。ジャーナリスト」の方々相手なので、一応幾つか復活させておいた。


歌田明弘の『地球村の事件簿』: われわれはみな「隠れオウム」の容疑者


BigBang: 週刊アスキーと歌田明弘氏への質問書
BigBang: 週刊アスキーと歌田明弘氏への質問書(2)----歌田氏の回答
BigBang: 週刊アスキーと歌田明弘氏への質問書(3)----歌田氏の回答でわかったこと
BigBang: 「仮想報道 われわれはみな”隠れオウム”の容疑者」(週刊アスキー)の問題点について



今までも事の経緯はずっと見ていたが、幾つかの理由できちんと表に出ることはしなかった。尤も、泉さんについては既にかなり批判を加えている。その問題のすり替え、自分への責任を他人に転化し、謂れのない非難をすること。答えずに論拠無く他人を攻撃という要素は、歌田氏に更に顕著に見られた。尤も、彼女の幾つかの決断を、私は評価している。彼女はジャーナリストを続けるべきではないと思っているが、この件について落とし前をつける事は、彼女の決断力を以ってすれば、今に至っても不可能なことではないと思っている。



歌田氏のエントリーに関して。
松永氏はそもそも現実にアーレフ信者であったのであり、政治懇談会に出たことも、報道機関に関わった事も事実として存在している。だからこそそこへの説明責任を求められているのであり、理不尽な事を要求されているわけではない。また泉さんもume氏も実名など公表していないし、匿名性を云々するなら、報道機関を立ち上げようとしていた人間が、匿名を保とうとしていた事こそ、遡って非難すべきだろう。だが歌田氏はこれらの経緯を全て落としている。自身の言に反して、何もかもまず擁護ありきであり、そこには何の整合性も無い。氏のやっていることは、意図的誘導以外の何物でもない。


ume氏が、第三者から見て、全く根拠の無い訴訟をすると黒崎氏を脅し、また未だに実行動がないらしいこと。そもそも辞職の経緯がなんとも不自然であり、そこに説明を求めても、全く答えがなかったこと。それらにも歌田氏は全く触れていない。仮にume氏のクビが事実であったとしても、この間の説明の不在への非難に対して、ume氏は全く言い訳できない筈である。




R30氏(火中の栗拾いツアー企画)、佐々木氏(ジャーナリストの視点「ことのは」問題を考える)と来て、幼稚で馬鹿げた言論ではあるが、そこには看過し得ない影響力があった。そして今回、紙媒体でこのような記事が出て、かなりの警戒心を抱かざるを得なかった。そこにある危険については、諸氏が指摘されている通りであり、BB氏の書くように、松永氏とは全く関係なく、アーレフ反主流派のプロパガンダに利用される危険もある。しかしそれについて彼らは自覚的ではなく、近視眼的に松永、泉両氏を擁護する論陣を張る事が、どれだけの危険を呼び得るか、またその危険性とは何なのか。彼らは全くわかっていない。この間違いは以前一度日本人の一部が犯した事ではないか、いや彼らの言葉はそれ以前の問題ではあろうが。


何度でも言うが、彼らは愚かである。自分のしている事がどれだけ危険か分からない程、少なくとも、それ程には愚かである。彼らの言葉に無防備に晒される人間がいるならば、反駁する者が必要だろうし、それは多いに越したことはない。



今回のこととは別に、アーレフへの不寛容という論点で非難する声が多かったので、少し書いておく。
現在のアーレフが、以前の危険集団オウムと同じだとは私も思わない。しかし上祐氏が教団と離れる選択をした事を見ても(上祐氏に問題なしとするわけではない)、「安全」な団体と見なすのは明らかに早計である。
どちらにしろ日本人はアーレフと共生する選択をしたし、しかしそれは、決して彼らを放置して良しとするものではない。なぜ滝本弁護士のような人が、今回麻原弁護に加わった元オウムの弁護士を告発し、活動を続けているのか。公安がアーレフを監視し続けているのか。それがあるから我々はとりあえず「安心」していられるのであって、彼らに問いを発し続けていく事無しに、共生する事はありえない。その地道に問いつづける姿勢だけが、彼らと共生する手段の筈である。



日本だけがオウムなどの宗教に不寛容なのだという指摘もあったが、なぜそういう発想が出て来るのか。オウムという存在は特別であり、「あの日」の記憶は、世界中の人間の脳裏に残っている。その活動は、どの国の国民にも、無条件に許容される事はない。例えばロシアでは、イスラム原理主義の幾つかの宗教団体と共に、オウム真理教は、許容する事のない団体であるとされている。
サイエントロジーエホバの証人も我々はきちんと受け入れている。だがこれらは別だ」。

追記参考
However, there is a number of religious associations such as ‘Aum Senrike’, ‘Islamic Jihad’, ‘The Muslim Brothers’ that failed to receive registration in the territory of Russia.


Interfax -Religion Russian MFA Information and Press Department commentary regarding the U.S. House of Representatives resolution on violation of religious freedom in the Russia

ロシアのイスラム原理主義の扱いについては、チェチェン等についての政治的思惑もあるが、オウムに関してはそこに特定の思惑はない。この二つの共通点は「テロリスト」ということである。そこに内在する危険は、他の宗教カルトとは、全く別個のものであり、また何よりも、

「さほど大きくもなく力も無い集団が、突発的な狂気によって、殺戮できる兵器(物)を手にし、人を大量に殺し得るのではないか」


この漠然と人が抱いていた恐れが実現された事。それこそがオウム事件への恐怖の本質であった。
それとわかる程、巨大に存在している脅威ではなく、日常から顔を出して、無差別に人を殺していく存在。そこへの戦慄の感覚は、サリン事件の記憶がある人なら、覚えている筈である。



これらの団体によって、社会の危険の様相は一変する事となった。オウムと社会を論じるなら、なぜその事を語らないのか。その事の方が、人の意識にとって、よほど本質的なものではないか。私は、勝手に相手の恐怖という幻を見て取り、悪と断じる人々の論調を、浅薄且つ独善、人の深淵を無視するものだと見なしている。そして以前オウム時事件によって実現された「恐怖」は、人をパニックに陥れる類のものではなく、人の生と不可分の、社会を構成する一部、意識ですらない、そんなものである。



現在、アーレフが以前のような事件を起こすような力があるか。無いだろう。そのような思惑も持っていないと推測もできる。しかしそれは国がオウムの犯罪を犯した人間たちを拘束・隔離し、裁き、団体の力を弱め、公安などが監視し、手足を縛った事による。松永氏のような、事件に関与しなかった信者が「どうしても理解できない」のもわからないではないが、では彼はなぜそこを徹底的に考えようとしないのか。宗教に何かを求めるならば、真実を求める事は無いのか。個人的な感想ではあるが、私にはそれが分からない。そしてそこへの眼差しがないからこそ、彼は未だオウムであろうと言われてしまう。脱会届などを出す気がないであろう事がわかる前に、前提としてその彼の心情があった。


アーレフという団体を見た場合、そこにオウムとの断絶があるわけではない。賠償金を払うなどの具体的行動によって、彼らは一定の信用を得ているが、きちんとした総括があったわけでもない。それは「松永氏的心情」に拠るものなのかもしれないが、無条件に社会が許容できるわけがないのだ。



前置きが長くなり過ぎたので、エントリーを分ける。
元々がコメント用なので、文章がエントリの内容を為していないが、ご容赦を。